はじめに
ホロライブは世界的に人気を集めるVTuberグループであり、演者とファンが一体となってコンテンツを作り上げる文化が魅力となっている。
しかし、人気と注目度の高まりに比例して、ネット上では誹謗中傷や荒らし行為などのトラブルも増加している。
匿名性が高いネット空間では相手の心への配慮が希薄になりがちで、悪意や偏見に基づく投稿が拡散されることも少なくない。
こうした問題は演者の精神的負担を高め、活動休止や引退に追い込む原因になっている。
誹謗中傷とは何か
誹謗中傷とは、根拠のない噂や侮辱的な表現によって他人の名誉や信用を傷つける行為である。
日本の刑法では「名誉毀損罪」と「侮辱罪」という二つの罪名があり、公然と事実を摘示して社会的評価を低下させる行為が名誉毀損に該当する。
侮辱罪は特定の事実を指摘せずに公然と他人を侮辱する行為を処罰するもので、2022年7月の改正により最大1年の懲役または30万円以下の罰金という重い刑罰が科されるようになった。
政府はSNS上での誹謗中傷について「批判」との違いを明確にしており、事実に基づく意見や公益的な問題提起であれば表現の自由として許容されるが、人格攻撃や根拠のない悪口は違法となることを示している。
匿名であっても加害者は特定され、リツイートや拡散行為も共犯となる可能性があるため軽い気持ちで投稿してはいけない。
法的枠組みと行政の取り組み
ネット上の誹謗中傷被害に対して日本政府は法整備と相談窓口の充実を進めている。
2022年10月からは発信者情報開示請求の手続きが簡素化され、プロバイダ責任制限法の改正により被害者が加害者を特定しやすくなった。
警察庁の情報提供では、誹謗中傷に遭った場合は証拠を保存し、書き込みを行ったサービスの運営者に削除を求めるとともに、危険を感じたら迷わず警察に相談するよう呼びかけている。
違法な書き込みは名誉毀損や侮辱罪だけでなく、脅迫罪や業務妨害罪などの適用対象ともなり得る。
被害者は専門機関の相談窓口(違法・有害情報相談センターやセーファーインターネット協会など)を利用できる。
VTuber文化における心理的安全性
VTuberのライブ配信は視聴者にとって癒しや楽しみを提供する心地よい居場所となっているが、その心理的安全性は演者と視聴者で非対称な構造を持つ。
オンラインでは視聴者がニックネームやアイコンを用いて発言できるため匿名性や不可視性に守られており、演者は多数の視線と期待を一身に背負って活動する。
この環境は「オンライン脱抑制効果」と呼ばれる心理メカニズムに基づいており、匿名性や非対面性により発言のハードルが下がる一方、相手への共感が薄れ、大胆な発言や攻撃的なコメントを誘発しやすい。
ライブ配信のコメント欄は「1人対多人数」の非対称な空間であり、視聴者は大勢の中の一人として責任感が希薄になる。
社会心理学ではこれを「没個性化」と「責任の分散」と呼び、周囲も同じ行動をしているから自分の行為が問題ないと錯覚する傾向がある。
さらに、視聴者はVTuberに対して一方的な親近感を抱きやすく、擬似的な友人関係と錯覚する「パラソーシャル関係」が育まれる。
この親密さは応援やエールを生み出すポジティブな側面を持つ一方で、演者に対する過度な期待や要求へと発展しやすい。
視聴者側の心理的リスクが低い一方で、演者は多対一の圧力を受け続けるため、常にポジティブな感情を表現し続ける感情労働を強いられる。
演者がパフォーマンスを維持するために精神的エネルギーを消耗し、バーンアウトに陥る危険性が高いことが指摘されている。
アバターは演者のプライバシーを守る盾であるが、視聴者のあらゆる感情を受け止める的にもなるため、侮辱や誹謗中傷の矛先になりやすい。
ファン側の問題行動の類型
ホロライブやVTuber界隈では、ファンの一部が過度に介入したり、独自の正義感で他人を攻撃する行為が問題となっている。
自治厨
自治厨とは、自分があたかも管理者であるかのように他人の言動を取り締まり、独自のルールやマナーを押し付けるファンのことである。
ホロライブに限らずどのコミュニティにも存在するが、彼らは結果的にコンテンツの熱量を削ぎ、配信の雰囲気を悪化させてしまう。
公式のルールを遵守するように促すことは自治厨とは異なるが、荒らしに反応したり他人に「ブロックしろ」と指示する時点で自治厨の仲間入りとなる。
視聴者は荒らしに対してはスルーして報告するのが最適であり、自分が正義の味方になったつもりで他人を叱る行為は状況をさらに悪化させることを理解すべきだ。
伝書鳩と杞憂民
伝書鳩は配信と関係のない他の人の名前を出す行為であり、ライバーから再三注意喚起がなされている。
杞憂民は断片的な情報から妄想を膨らませ、不要な心配や圧をかけるファンを指す。
心配する行為自体は善意に基づくが、ライバーの体調や配信方針は企業側の問題であり、ファンがプロデューサーになりきって意見を押し付けるのは避けなければならない。
全肯定の民とホロコーン
全肯定の民はライバーを全て肯定するファンのことで、良好な部類は信頼に基づいた応援だが、タチの悪い部類はどんな問題も見過ごすため建設的な議論ができない。
ホロコーンはライバーに恋愛禁止を押し付けるような過激なファンを指し、レッテル貼りに使われることもある。
こうした過激な支持層が幅を利かせると健全なファンが離れていき、コミュニティ全体の民度が低下する。
ホロライブ運営の取り組み
ホロライブを運営するカバー株式会社は誹謗中傷や権利侵害に対して積極的に対応している。
2023年の一年間に同社は116件の権利侵害案件に対応し、投稿の削除申請や発信者情報開示請求、裁判提起などを実施したと報告している。
14件の発信者情報開示請求を行い、9件で投稿者の特定に成功し、4件で損害賠償と再発防止の約束を含む和解が成立した。
海外の弁護士とも連携し、海外からの嫌がらせにも法的措置を取ったほか、無断でコンテンツを転載する「まとめサイト」への法的対応も進めている。
カバーはGoogleやANYCOLORと協力して削除手続きや警察への情報提供を進めるなど、プラットフォームと公的機関との連携を強化している。
2024年5月にはUUUM、ANYCOLORと共にクリエイターエコノミー協会内に「誹謗中傷対策検討分科会」を設立し、動画配信者への誹謗中傷を減らすための議論を行っている。
運営は既存の啓発活動だけでは悪質な加害者には対応できないことを認識し、弁護士や警察との連携を通じて法的措置を強化することを表明した。
ファン向けには誹謗中傷や違反行為を報告する専用フォームを設けており、自分で正義の鉄槌を下すのではなく運営に知らせるよう呼びかけている。
2024年には252件の権利侵害案件に対応したとされ、誹謗中傷対策検討分科会への参加によって企業間の情報共有を進めている。
2025年6月には匿名掲示板に偽の契約解除画像や爆破予告を書き込んだ者など数件の加害者を特定し、謝罪や賠償金、再発防止を約束させる和解を締結したと報告した。
同社は虚偽情報の拡散、名誉毀損、プライバシー侵害、犯罪予告などを禁止行為として明示し、今後も民事・刑事両面で厳格に対処する姿勢を示している。
2025年8月には無断でキャラクターイラストを使用したグッズ販売やSNSでの侮辱投稿に対し警察への刑事告訴や損害賠償請求を行ったことを公表し、権利侵害行為には厳しく対応する方針を改めて強調した。
ANYCOLORの取り組みと共同声明
ホロライブと双璧をなすVTuber事務所ANYCOLORも誹謗中傷対策を強化している。
2022年12月、ANYCOLORとカバーは共同声明を発表し、VTuberに対する嫌がらせやプライバシー侵害が深刻化していることを受けて協力を宣言した。
声明では、匿名性が高いネット空間で悪意のある投稿が簡単に拡散し、演者の心身やキャリアに甚大な影響を与えていることを指摘し、企業間でノウハウを共有しながら法的措置を取る方針を示した。
既に悪質なまとめサイトの運営者と交渉し、誹謗中傷記事の掲載中止や謝罪を取り付けた事例もあり、今後も警察との連携を強化すると表明している。
2024年6月にはANYCOLORが悪質なアンチブログの運営者に対して発信者情報開示請求と損害賠償請求を行い、サイト閉鎖と再発防止の誓約を得たと報道された。
こうした取り組みは「誹謗中傷は放置せず法的に対処する」という企業姿勢を示しており、ファンコミュニティに対しても無闇に私刑を行わず公式ルートで報告することを呼びかけている。
相談窓口とメンタルヘルス支援
VTuberの誹謗中傷問題は精神的な負担を生むため、専門的な支援が必要となる。
国内では誹謗中傷を受けたクリエイターの4人に1人が被害経験を持ち、その7割が何も対処していないという調査結果がある。
個人勢の場合は相談相手がなく、一人で抱え込んでしまうことも多い。
そこで、2023年にはメンタルヘルスケア企業INTERMINDがVTuberやVライバー向けのオンラインカウンセリング実証プログラムを開始した。
プログラムでは医師や心理士によるメンタル不調の予防や回復支援を提供し、参加者の悩みを専門家がサポートする。
さらに2025年4月には弁護士監修の相談窓口「V‑TIPS」が設置され、VTuberが誹謗中傷やストーカー行為、権利侵害、金銭トラブルなど様々な問題を匿名で相談できるようになった。
個人勢・企業勢を問わず利用可能で、相談内容に応じてオンラインヒアリングや弁護士・精神保健福祉士の紹介が行われる。
相談窓口では誹謗中傷のほか契約や知的財産、ストーカー行為、メンタルヘルスまで幅広い問題を取り扱うことを紹介しており、業界全体の支援体制を整備することが急務であると強調している。
事例紹介
2020年の「台湾」表記を巡る騒動
ホロライブの赤井はあとと桐生ココがYouTubeの視聴者分析画面に表示された「台湾」の国名を読み上げたことをきっかけに、中国のネットユーザーから激しい批判と誹謗中傷が殺到した。
中国では「台湾」を国名として扱うことが政治的に敏感な問題であり、多数の中傷コメントや脅迫が投稿されたため、カバーは安全確保のために両名の配信活動を一時停止し、日本語と中国語で異なる声明を発表した。
この対応は日本のファンから中国市場への配慮を優先したとして批判を受けたが、運営は現地関係者の安全を守るための緊急措置だったと説明している。
この事件は言葉の解釈が異なる文化圏で配信するリスクを浮き彫りにし、誹謗中傷の嵐がどれほど演者に精神的負担を与えるかを示す典型例となった。
偽情報と脅迫の投稿
2025年6月、匿名掲示板にホロライブタレントの契約解除を装った偽画像やバーチャル空間への爆破予告が投稿され、これがSNSで拡散した。
カバーは発信者情報開示請求により複数の加害者を特定し、損害賠償や謝罪、再発防止を盛り込んだ和解を締結した。
この報告では、名誉毀損や脅迫、プライバシー侵害などの行為が才能に深刻な心理的負担を与えるため、今後も刑事・民事の両面で厳格に対処する方針が示されている。
無断グッズ販売と侮辱行為
2025年8月、ファンアートを無断で使用した商品を製造・販売した個人に対し、カバーは刑事告訴を行い損害賠償を求めた。
同月別の事案ではタレントを侮辱するSNS投稿者に対して発信者情報開示請求を行い、謝罪文と賠償金を受け取って和解したと公表した。
これらの事例は、ファンビジネスであっても権利侵害や名誉毀損があれば厳正な法的措置を取るという運営の姿勢を示している。
実際の裁判事例と法的解釈
VTuberに対する誹謗中傷が裁判でどのように扱われるかは重要な論点である。
大阪地方裁判所は、匿名掲示板に投稿された「仕方ねえよバカ女なんだから」「母親がいないせいで精神が未熟だろ」といった表現がVTuberの名誉感情を侵害したとして、発信者情報の開示を命じた。
裁判所は、原告が架空のキャラクター「V」の名前とアバターを用いて活動していることを認定した上で、投稿が「V」に向けられたものであっても侮辱されたのは演者本人であり、社会通念上許容される限度を超える侮辱は人格的利益を侵害すると判断した。
法律事務所の解説記事では、一般論としてアバター自体には人格がないため名誉感情侵害は成立しないという考え方があるものの、この判決ではアバターの言動が演者の個性や経験を反映しているため侮辱は演者に向けられたものと評価されたとしている。
これはVTuberの活動が演者の肉声や体験を反映している限り、アバターに対する誹謗中傷も本人への侮辱にあたるという法的判断の重要な先例である。
情報法制研究の論文でも、近年VTuberに対する誹謗中傷裁判が積み重ねられ、アバターへの攻撃が「中の人」の人格権侵害と認定される傾向が強まっていると指摘している。
この論文は、判決がVTuberの活動スタイルやアバターと演者の結び付きに着目し、侮辱の矛先が表面的にアバターに向けられていても演者の人格権侵害を認めている点を高く評価している。
ファンができること
誹謗中傷のない健全なコミュニティを作るために、ファン一人ひとりの意識が重要である。
- 荒らしや誹謗中傷に遭遇したら反応せず、各プラットフォームの報告機能やホロライブ運営の報告フォームを利用して通報する。
- 独自のマナーを他人に押し付けず、公式のルールを静かに守ることで自治厨化を避ける。
- 気軽なリツイートや引用リプでも誹謗中傷の拡散に加担する可能性があるため、情報源と内容を確認し、不確かな噂話は共有しない。
- ライバーの私生活やプライバシーに踏み込み過ぎないようにし、ファン同士の監視や吊るし上げを行わない。
- 批判や改善要望は事実と建設的な意見に基づいて行い、人格攻撃や感情的な罵倒を避ける。
- VTuberは架空のキャラクターではなく生身の人間が演じていることを常に意識し、精神的負担を減らすよう配慮する。
誹謗中傷に遭った時の対処法
VTuber本人やファンが誹謗中傷の標的になった場合は、感情的に反応する前に冷静な対応が求められる。
- 画面のスクリーンショットやURLなど証拠を保存し、加害者が投稿を削除しても対応できるようにする。
- SNSやプラットフォームの通報機能を使って投稿の削除を依頼し、匿名掲示板の場合は削除申請を行う。
- 名誉毀損や侮辱など明らかに違法性の高い投稿であれば、発信者情報開示請求や損害賠償請求を検討する。
- 身の危険を感じる脅迫やストーカー行為があれば迷わず警察に相談し、専門機関や弁護士に助言を求める。
- 心身に不調を感じたら、先述のオンラインカウンセリングやV‑TIPSなどの相談窓口を利用し、早めに専門家のサポートを受ける。
今後の課題と展望
誹謗中傷問題は法律だけで完全に解決できるものではなく、社会全体の意識改革が必要である。
VTuber文化では演者と視聴者の関係が密接であり、ファンがコンテンツ作りに参与することで生き生きとしたコミュニティが形成される。
一方で匿名性や非対面性が誤った自己正当化を生み、演者の心理的安全性を脅かす行為につながる。
企業は法的措置と啓発活動を通じて権利侵害を抑止し、プラットフォームとも協力して迅速な削除や加害者の特定を進める必要がある。
ホロライブやANYCOLORが共同で設立した誹謗中傷対策検討分科会やV‑TIPSのような相談窓口は、業界全体で課題に向き合う重要な取り組みである。
心理的安全性の非対称構造を認識し、演者のメンタルヘルスに配慮したサポート体制を整えることも欠かせない。
ファン一人ひとりがネット上の言動に責任を持ち、誹謗中傷を許さない雰囲気を作ることで、VTuber文化はより健全で持続可能なものとなるだろう。
まとめ
本記事ではホロライブを中心にVTuber界隈の誹謗中傷問題を検証した。
誹謗中傷は法的にも社会的にも重大な権利侵害であり、匿名であっても決して許容されない行為である。
VTuber文化には視聴者と演者の心理的安全性の非対称性が存在し、匿名性や一方的な親近感が無自覚な攻撃や要求を生む構造的な問題がある。
ホロライブやANYCOLORは法的措置や相談窓口の整備を進め、ファンにも公式の報告フォームを通じて対応を促している。
裁判例ではアバターへの侮辱であっても演者の名誉感情を侵害すると認定されるようになり、法制度はVTuberの実態を踏まえて進化している。
ファンは荒らしに反応せず報告を徹底し、建設的な応援と健全な批判を心掛けることで、推しを守り文化を育てることができる。
誹謗中傷に遭った場合は証拠保存や削除依頼、専門機関への相談を行い、ひとりで抱え込まないことが大切である。
今後も運営・企業・ファン・プラットフォームが連携して誹謗中傷の抑止に取り組み、VTuber文化の未来を守っていくことが期待される。
参考文献
- 政府広報オンライン「SNSでの誹謗中傷はなぜ罪になるの?」
- 警察庁「インターネット上の名誉毀損・誹謗中傷等に対する対応について」
- note記事「VTuber文化の持続可能性を探る──心理的安全性の非対称構造を乗り越えて」
- note記事「ホロライブファンの一部の民度が酷すぎる件について」
- カバー株式会社「当社および当社所属タレントに対する権利侵害行為への対応状況について」
- MoguraVR記事「カバー、ANYCOLOR、UUUMが誹謗中傷対策検討分科会を設置」
- ANYCOLORとカバーの共同声明
- Otaku Souken記事「国内2大VTuber事務所が「誹謗中傷行為の根絶」に向け連携 共同声明を発表」
- PRTimes「Vtuber/Vライバーへオンラインカウンセリングを提供、クリエイターに向けたメンタルヘルスケア価値実証」
- MoguraVR記事「VTuberが誹謗中傷や権利侵害、金銭トラブルの問題を相談できる専用相談窓口 V-TIPSが設置」
- J-CASTニュース「「一つの中国」支持声明のVTuber運営企業が謝罪 安全守るための「緊急措置」だったと説明」
- アトム法律事務所コラム「配信者やVtuberへの誹謗中傷…アバターへの暴言は『中の人』への名誉毀損?」
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